れもん。

自分そのものを生きることができたら。

頭のついたエビフライ

私は父の涙を見たことがない。

祖父が亡くなった時も、祖母が危篤になった時も、

祖母が亡くなった時も、ただ一人淡々と物事をすすめてきた。

 

私は父の愚痴も聞いたことがない。

仕事がうまくいかないときも、不安に押しつぶされそうなときも

孤独の波が襲ったであろうときも、ただ一人ぐっと堪えて日々を過ごしてきた。

 

なんて強い人だろう。

私には到底できないといつも思う。

祖母が亡くなっただけで鬱々とし、私より悲しいであろう父の横で涙を拭いていた。

家族が亡くなるなんて想像しただけで不安と孤独に圧し潰されそうになる。

いくら泣いても、いくら泣いても涙なんてあふれてくる。

こんな風にお金でもあふれてくればいいのに。

私には父のようになれない。

父を見るたびにしっかりしなきゃと思う傍ら、末っ子の甘えん坊な大人になれない私がいやいやをする。だって私悲しいもん、だって私不安だもん、と。

いくつになっても子供は子供とはよく言ったもので。30代も半ばを過ぎるというのに、私はいつまでも末っ子の泣き虫なあやちゃん、のままだ。

 

祖母の通夜のとき、施主である父は家族を前に一言感謝の辞を述べた。

祖母の遺言で近親者だけの小さな家族葬だ。

一瞬、言葉が詰まった。もしかしたら初めての父の涙かもしれなかった。

これを見逃したら一生父の涙を見れないかもしれない。

それでも、私は父の顔を見ることができなかった。何かが私を引き留めた。

父は一瞬間を置いて、従弟の岩男おじさんへ献杯の音頭を頼んだ。

 

その日のお弁当は頭のついたエビフライだった。

「なんだかとても豪華ね」

と父に笑ったら、

「そうだな、すごいな、これ」

と笑った。

 

これでよかったんだ。

これ以上は何も言うまい。

 

「お父さん、もう今夜は帰って眠ろうね」

「そうだな、今夜はよく寝れそうだ」

 

おとうさん、頭のついたエビフライ、おいしかったね。おとうさん。